2009/04/03

ポール・モーリアの夜

  ピアノは、イタリアのメディチ家に仕えていたB・クリストフォリが作製したClavicembalo col piano e forte(小さな音も大きな音も出せるチェンバロ)が起源とされている打弦式の鍵盤楽器だ。チェンバロは、プレクトラムという爪が弦を爪弾いて音を出す撥弦式の鍵盤楽器で、強弱の加減が限られていた為、その表現力の限界を打破すべく、多くの技術者の手によって工夫が繰り返されてきた中でクリストフォリは、新たに開発したトラクタメント(打弦機構)を採用した。当初はチェンバロのTUNE-UPに過ぎなかったこの楽器は、300年前(1709年)にマスコミの力を借りて独自のカテゴリーを得た後、第一次産業革命の後押しを受け急速に進化していった。一方のチェンバロは(バイオリンと同様に)この300年大きな変化も無く600年の歴史の中で穏やかに音楽との関係を維持し続けている。
  
  チェンバロは、バイオリン等と同様に16世紀から18世紀にかけて醸成された楽器で、今尚広く愛され続けている。正しくはクラヴィチェンバロと云い、英語圏ではハープシコード、ドイツ圏ではキールフリューゲル、フランス圏ではクラブサンと呼ばれていたそうだ。
  J.S.バッハのチェンバロ協奏曲が好きだと云う人は多いと思うが、チェンバロの活躍はクラシック音楽の世界に留まらない。ローリングストーンズの「イエスタデイズ・ペイパー」や、懐かしいアニメーション「キャンディキャンディ」の主題歌でもチェンバロが使われている。しかし、如何なる楽曲よりもポール・モーリアの「オリーブの首飾り」は、昭和50年頃から松旭斎すみえが使用して以来、手品のテーマソング宜しく全国津々浦々老若男女を問わず受け入れられている。日常生活の中で本物のチェンバロにお目にかかる機会は殆ど無いが、その音色は日本中に溢れていて、そういう意味で大変身近な楽器と云う事ができるだろう。

  私の住んでいる街では『クラブ』という名のタクシーが活躍している。私の父が駅前で創業した当時は隣組としてお世話になり、古くから馴染みの深いタクシーだ。すこし渋めの青一色で塗られた車体は、幼い頃に読んだ「車のいろは空のいろ」に出てくる松井さんのタクシーの様で「すずかけ通り3丁目までおねがいします」と頼んでみたくなる。
  坂の上にある老舗の料亭で宴会が跳ねると、女将さんが「タクシーのご入り用は?」と優しく訊ねてくる。「お願いします」と答えると「それではクラブさんで」と云って着物の裾を翻し衣擦れの音を残しながら帳場に消えていく。女将さんが『クラブサン…デ』と魔法の言葉を発した瞬間、私の頭の中いっぱいにバッハのチェンバロ協奏曲が鳴り響く。少し度が過ぎた飲み方をした夜、バッハは呆れて姿を見せないが、代わりに“タララ ラララ~ン”と、真白なスーツと赤い蝶ネクタイ姿で華麗にクラブサンを弾くポール・モーリアが登場する。
  そんな夜は“クラブさん”に揺られながら愚かな自分を反省しつつ、まっすぐ家に帰ることにするのだ。